#北海道短編エンゲキ祭まとめ
自発的に観劇したの久々すぎてコンカリの場所わからなかった。
「犯人は山田/オヤジラップ」
両作品が地続きの舞台だと思って観てしまっていて、実際のところ、そう観れていたお陰でさらに楽しめていた部分も大きかったように思う。え?第2章!?こっからどう繋がってくん!?的な感じだった。まあ、僕の誤読だったわけだけれど…。
展開の飛躍で繋いでくシンプルな面白さがあって、戯曲が良いのではと思いました。俳優も陰キャっぽくて個性的だったし、戯曲の強みを俳優がより研ぎ澄ましていけばさらに面白くなりそう!と期待が膨らみました。楽しんで観賞しました!
「ドリルホール」
星くず特有の、伏線を巧みに仕込んで壮大に笑いに昇華させる構造?みたいな持ち前の強みを生かしつつ も、推理モノ/刑事モノへのオマージュというか、そういうシリアスめのトーンや展開と上手くミックスダウンさせていくような、今までとは一風変わった新しい試みだったのかな!?と思って観ておりました。
なんかTVドラマっぽくてすごいなと感心していたけれど、どうしても最終的に「何処で伏線全部回収してくれるの!?」みたいなカタルシスを期待してしまい、それが最後にあれえ~ちょっと弱いなあれえ~ってなっちゃう感じでした。僕の誤読で、ドラマツルギーが違ったのかもしれない。僕としては、これから回数重ねてリライトしてくと、さらに独創的な舞台に仕上がってくのかな!と期待値も高かったです。次回作も期待しています!
「猫背の恋」
50歳になった女性が若かりし姿になってもう一度青春を…っていう構成だけでなんかもうヒャーなりましたわ。もう、ずるいですよね!
まるで少女コミックスのページを一枚ずつ捲ってるのでは?って思わされるほどに、脳内でパッと二次元のキャラクターに変換されまくりでした。
近年のパーソンズぽい?淡々とした会話よりも、ファンタジックな演出と弦巻楽団にも似た?捲し立てるようなテンポの良い台詞回しが特徴的でした。
"AZUSA"様がもういいねボタン連打ですよ。一挙手一投足、純度高めのヒロインですね。ドゥフフ…ブヒヒ…ありがとうございます…!
対劇を終えました。
企画者である佐々木龍一さんに声をかけたあの日から3ヶ月が立ち、僕は上演を終えた。帰札して、2作目だ。
関係する人間も往々にして変化し、僕は全く新しく会う人とこの劇を作ることにした。いや、作らざるを得なかった、といえる。どんな状況にせよ、彼等と出会ったからこそ、出来た劇になった。そうしたかった。それが良かったとか、悪かったではなく、そうなるに尽きる。そこに、屈託はない。
難しいトライだった。企画側を初め、僕たちを初め、闇の中を歩いた。闇の中を歩かなければ、どんな結果も生まれ得ない。僕たちは、数々の間違いを犯したはずだ。しかし、そこにネガティブになってはいけない。面白い劇を追求するための試行錯誤がそこにあった。舞台は必ず終わるが、まだ生きてるし、これからも生きねばいけない。生きてるなら、その先がある。
作劇や演出に関して、多くのヒントを貰った。
伊勢川明久(Road of 座)、岩田知紘(熱濃硫酸906)、大橋拓真(yhs)など、若い気鋭の目線に晒されて、より複数の視点に触れることが出来た。
そして、東京から中村葵(劇団コチョウカンケイ)がやってきた。度々喧嘩をしながらも、劇について深く模索しあった朋友であることは間違いない。過去に僕らはさっぽろで、劇についてああだこうだと言い合った。向こうでも、ああだこうだと言い合った。再びここで、ああだこうだと言い合った。あらゆる時間が結びついて、静かに、劇的に、ポリフォニーがあった、かもしれない。
そんな2018年、夏。
劇の目撃者となった、または目撃せずとも気に留めてくれた全ての人に、敬意と感謝を表したい。素っ気ない褒めそやし、中傷よりも、創造的な称賛、批判が僕は好きだ。果たして見分けがついてるのかどうか、半信半疑だけれど。また、名付けようのない混沌へと、そして再チャレンジについて、肉体を切り替えていきたい。
皆さま、本当にありがとうございました。
深くここに敬意を表し、また次のステップへ。
雑然としたこと
僕たちは、現前を愛してしまっている。
生、気持ち、感情、内面、そこにいる、コミュニケーション、熱量、身体、などがキーワードになる。
僕たちは、記号を愛してしまっている。
理解、解釈、意味、誰にでも、コミュニケーション、ゲーム、分かりやすさ、などがキーワードになる。
この、一見二項対立に見えてしまう問題は、現在も耐えず錯綜し続けている。
突然だが、僕は、あまり賢くない。
暗闇を歩けば、何処かで道を踏み外し、光に照らされた時に、それが初めて間違いだと気づくのだ。
この間違いは、日に日に増え続けている。僕も、僕の周りでも。この無頓着な増殖こそが、問題だ。
だからこそ、"それ"そのものの、その"本質"を、語らなければならない。
何が言いたいのか。
"それ"のラヴァーは、枠組を愛してしまっている。
"それ"のヘイターは、社会を愛してしまっている。
ああ、僕の避難所は、どこだろう。
ああ、僕の師は、どこだろう。
昨日も、今日も、明日も、
そのヒントの積み重なりだというのに。盲目である。
観劇の感想
伝える、とか、見せる、意識から遠いものが好きだ。
先月くらいに観た、安田せひろ氏の一人芝居「とおいの知覚」には、割とそういった片鱗を感じた。
博物館にでも入って、展示物の紹介のナレーションでも聴いてるかのような気持ちになる。俳優とか、演出の立場からするなら「おいおいよっ!」とツッコミを入れたくなるような、そんな構造を持っている。終始、台詞なく、かつ動的でもない。しかしながら、ああ、これも、演劇なのだろう、と思った。
物語的(コンテキスト)というより、微分的(プンクトゥム)な、と言いたくなるような。"それ"との対話だ。
短編のオムニバス形式なので、一層その異質さが際立つ。見せ物小屋的な観賞作法からすれば、とても退屈な演劇かもしれない。しかし、同質的なクラスタ内での均一化されたような演劇が多くなりがちな中、この演目は、僕に取って、良い意味で印象に残るものだった。
去年に観た「真・ゲンコツ人間」も然りである。主観的なセオリーを保留して観なければいけない演目は、時に冷や汗ものかもしれないが、ある種、来た甲斐があった、と思えるタイプの一つだ。おれもがんばろう。